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○日本人は声で伝えないようにしてきた NO.251

 日本人のよいと思う声はあまり説得性をもつものではありません。イタリア人のセレナーデにみられるように、声がくどきの武器として使われてきた多くの民族に対して、日本にはそれにあたるのは文だったのです。(歌垣、万葉の歌)

 日本語の文字が過度に発達したのは、その辺りの事情があるのかとも思います。私たちの国語の時間は、読み書き中心でした。音楽の時間は、鑑賞と楽器の演奏中心で、合唱は日常を大きく離れた特殊領域のようでした。

 日本の歌は、もともと見知っている内輪のなかで使われ、一対多で見知らぬ人に向かって歌われたものでもなかったため、表現もインパクトや新鮮さよりも、心安まるものに偏っていました。日本には、フランスのエディット・ピアフやゴスペルのマヘリア・ジャクソン、ジェームズ・ブラウンのような声は、使われませんでした。天才歌手、美空ひばりの歌声でさえ、どちらかというと、内に感じさせる声であり、外へアピールするものではなかったように思えてきます。

 たとえば、ファーストフードでのアルバイトの元気で明るい声、それは以前の、やはり日本独自のエレベーターガールやコールセンターの応答のキレイな声の延長上にありますが、さらに近年、子供っぽくなりました。そこに、日本のアナウンサー、ナレーターの傾向をみることができます。

 つまり、それらはビジネスとして、一線を引いた無難な声なのです。内容を伝える声、つまり、読む声であって、心が休まったり、心が動かされる、伝わる声ではありません。そこまで他人の心に入ってこないようにしているのです。

 その代表がアナウンサーです。アナウンサーの声に比べて、ラジオのパーソナリティの声を思い出してください。深夜放送の語り口には、とても心を動かされたため、笑ったり泣いたりしますね。個性的なその声は、その人だけのものです。それは決して美しいきれいな声ではないのです。

 とはいえ、今や歌手から落語家まで含めても、ラジオやレコード全盛期における声の力には、及ばないようです。

  A        B

  合唱       ゴスペル、フォーク

  アナウンサー   パーソナリティ、DJ

○声よりもしぐさがものをいった

 つまり、日本では伝わる声よりも、伝える声が優先されてきたと思うのです。一方で、こうもいえます。

 声で伝えなくとも伝わるようにしてきた。伝わるのは声でなく、しぐさを察することで高度に伝えてきたのです。

 女性の場合、この傾向は顕著です。お母さんの出す、子供を叱ったり、夫婦喧嘩をするのは、伝わる、低く太い声です。それに対し、同じお母さんが学校の先生や外からの電話に出る声は、伝える声です。とても高く細い声です。1オクターブくらい違うこともありますし、後者だけ裏声を使う人もいます。

  A        B

  高い       低い(しぜん)

  細い       太い(しぜん)

 私はこれを「声の敬語」といっています。ここまで相手やケースによって、声を使い分けるのは日本人特有のことではないでしょうか。外国人には、日本人の妙齢の女性の高音の声、特にTVの女性の高い声に耐えられないという人もいました。日本人は大人にもロリ声(ロリータ声)を期待する文化があるのです。これこそが、日本のアニメ漫画を世界に認めさせた要因ですが。子供性愛や暴力の描写が犯罪や違法になる外国人にとって、そうではない、日本にはアドバンテージがあったのかもしれません。

 楽屋裏で、魅力的に騒ぐ子供たちが、合唱になるなり、同じ顔、同じ口の開け方になる。確かに、一つの美的制御された世界のあるのを感じ取る差があるとはいえ、私は好きではありません。(同様に、日本のミュージカルにも、私はそう思うのですが)

○いつの世も説得と謝罪には、伝わる声が必要

 日本では唯一といってくらい、伝わる声でなされてきたケースがあります。それは、人への説得と謝りです。つまり、ビジネスの中でも一線を越えた場合です。しかし、このケースも日本では、声というよりは態度、しぐさ、表情の方が大きいのかもしれません。この二つの声については、特に大切なので、後章( )で詳しくとりあげます。

 これらを電話で行うというのは、音声だけでの特殊なケースですが、本当に重要なときは、膝をつき合わすことになりますね。

※面接、説得、謝罪に使っている声から考えよう

 人生を転じるほどの数少ないチャンスに、声が大きくあなたの信用性を伝えているのです。本当にあなたのことが伝わっていますか、その声で・・・。(例)たくさんしゃべっても、伝わらないAさん

○会話型社会と対話型社会

 音声コミュニケーションでは、伝え手と受け手の間を声がつなぐわけですが、ここでいくつかのタイプがあります。

  命令、指示 上 → 下

  報告、連絡 A → B

  会話    A ←→ B

  対話    (A←→B) ←C

 ここで会話と対話は、どう違うのでしょうか。

 簡単にいうと、話している二者間だけでわかるのが、会話です。対話というと、一対一でないイメージがありますね。一対一でも、そばに傍聴団など、二者間のやりとりを聞く人の存在が感じられます。対話集会は、労使であれば、経営陣と、労組の幹部がやり合うのを他の社員がみているようです。裁判なども、この対話をベースに組み立てられています。

 私が思い当たるのは、内(自分と身内)―外(よそ様)の関係しかない日本では、ほとんど会話しかなかったということです。寄合でも、内に入ったメンバーの会話でしかないということです。企業でも、社外取締役や監査の必要性のあり方は、日本人には難しいものだったのでしょう。今だに日本では、第三者的チェック機関は、空回りしていて、二者のどちらかに取り囲まれているのが大半です。

 よく例に出されるのは、電車内での女性の化粧や飲食です。同じ車両内に知り合いがいるとやめるというのなら、その人には、知り合い以外の他人は目に入っていないのです。欧米では、内の前に個人があり、親しくても、親しくなくとも、他人は他人、自分-外(内外)の関係となります。親しさによって、しゃべり方は変わりますが、日本人ほど大差はありません。兄弟でなくても、上司でも今日会った人でも、打ち解けたり、ファーストネームで呼ぶのは、そのためです。

 極端にいうと、欧米では、相手と話している内容が、第三者にもそのまま伝わる対話型になっているということです。私自身、身内としゃべるときと、知り合いとでは、スタンスもことばも声の使い方も変えます。TPOや相手によって、細かく変えるのは、日本の社会では当たり前です。ですから、逆に主語がなくても、誰のことかわかり、通じます。

 ところが、英語で話すときは、語学力を問わず、対話型になるのです。つまり、公の場を前提にした形に、ことばも声もおのずとそうならざるをえないのです。

 日本語より外国語の方が話すのも、書くのもはっきりとするのは、日本語の曖昧さを象徴しています。グローバルな時代、それでは通用しません。私のところに、外交官で外国人との論争で、語学力は負けないが、長く話すと声があがるので悔しいとヴォイストレーニングにいらした方がいました。

○あなたは伝わる声を使っているのか

 私に黒人の知人がいます。年に何回か、私のスタジオで会うのですが、そのとき彼は、5メートルくらい離れたところで足を大きく開いて座り、このスタジオに響く声で話すので、私もつられて対応します。きっと私たちのこのときの声は、マイクなしで体育館に大勢の客がいても、伝わるでしょう。ちょうどNYなどで、空いている電車の席に向かい合って座って、話す場面を思い浮かべてください。

 私たち日本人では、考えられない音声の距離感覚です。単に体が大きいからではありません。もともと、彼らの言語も声がひびきやすく作られているのです。

 かつて、教会では、高音は天井(ドーム)に、低音は床に響かせて歌っていました。私はリスボンの町を歩いたことがありますが、石畳の細い道を両脇に石造りの家がきちんと並んでいるために、何百メートル先から、ファドとギターの音が聞こえてきたのです。湿気の高い日本とはまるで声のひびきが違うのです。

 つまり、日常の言語音声において、彼らは、私たちよりもずっと恵まれており、その上に、そこで感覚的に声をひびかせていきます。結果として、声が鍛えられているわけです。

 欧米の文化を、目で見えるものから取り入れてきた私たちにとって、音声=声での表現力は、最後の砦のように立ちはばかっています。ステージでのしぐさ、表情、大道具照明、ストーリー、脚本、詞、歌ならメロディと詞、次に音程とリズムの順で追いついた今も、声の問題では、初心者に近いといえます。

 スピーチ、ディスカッション、ディベートという勉強も一時、盛んにはなりましたが、今の若い人は、徹底的に相手をやり込める討論も経験していないでしょう。そのため、ことばにとらわれ、声の中の真意の見えない人も、増えています。声のことを学んで、耳を鍛え、相手のことばのうしろにある本意を読み取るトレーニングは、どんな人間関係においても必修です。

 最近では、マイナスに受け取られる言葉をプラスに受け取られる言葉に変えるマニュアルなどが出ています。頭でばかり学んでも、体には身につかないでしょう。言葉も大切ですが、同じ言葉一つでも、声の使い方一つで大きく違ってくると、肝心なところほど声がモノを言うということを、この機会にもう一度考えてみてはいかがでしょうか。

○日常言語音声力を鍛えよう

 私は若い頃、TVでグラミー賞アカデミー賞でのスピーチに何度、感動したかわかりません。スピーチの内容も構成も表情も、声の使い方も、人間技に思えませんでした。私がアメリカにかなわないと思ったのは、そこに出る何十名も受賞者が全員、そのまま作品にできるくらいのハイレベルなスピーチであり、手本のようにアドリブも効いていたからです。どこまで役者の勉強をすれば、あのようにいえるのかと思ったものです。しかも声の力が個性的で、強力なパワーをもっていました。(勉強には、こういうイベントのスピーチシーンや映画の裁判の弁論シーンを何度も聞くことをおすすめします。日本では、裁判員制度も始まりましたし。)

 しかし、考えるまでもなく、彼らは日常であのような対話やスピーチをしている国を代表する表現のプロなのです。まさにこれは、基礎としての音声表現力での国力の差でもあるのです。

 外国人の一般の人たちの声や話も、日本人なら役者レベルにあると考えてみるとよいかもしれません。特に欧米の言語は、日本人からみると、演劇的なことばです。説得をして人を動かすことばです。

 つまり、外国に二十年も住んでいたら、外国語が話せるように、外国に二十年住んでいたら、声も息も話す力も鍛えられるのです。知識は時間と比例しますが、感覚は必ずしもそうはなりません。直らなかったり、もっと時間がかかることもありますが、やりようによっては、すぐに直ることもあります。そのために、このヴォイストレーニングをお勧めするのです。

 メンタルについても鍛える、「ものを言い切る」には、責任と覚悟と勇気がいるということです。そうしないと、心身も伴わず、説得力を支える声も息も出ないのです。

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